
プレイバックシアターとは
久松「今日はゲシュタルト療法家の白坂和美さんにプレイバックシアターについて聞いてみたいと思います。どんなものなんですか?」
白坂「プレイバックシアターというのは、即興演劇です。語られた人生のストーリーを、打ち合わせなしで、即興で演じて再現する。まさにプレイバックする。語り手がいて、役者がいて、コンダクター(語り手と役者を繋ぐ、演出家みたいな)とミュージシャン(効果音)がいるんです」
久松「誰が始めたの?」
白坂「ジョナサン・フォックスという人が創始者です。もともと演劇家なんだけど、大劇場でする脚本のある劇ではなくて、昔ながらの、年に一回ある村の歌舞伎のような演劇、日本で言えば。1950年代くらいに、即興演劇が流行った時代があって、そのときに、時事ネタ?そのとき起こっていたことを題材に即興劇をしていたっていう時期かあって。落語でもあるじゃない、観客からお題をもらって即興で話すというのが」
久松「あ、落語のごって、鶴瓶さんとか、ざこばさんとかがやってた、観客から三つ言葉をもらって即興で落語するという。あれの演劇版がプレイバックシアター?」
白坂「そうそう。即興で演じるということは、熟考できないわけで、だからこそそのときの感覚がすべてになる。だから役者の今の自分自身が出る。
今の自分と、語り手から語られたストーリーとコンタクト(追体験)する。そこでクリエイト(創造)されていくということ」
自分の人生を観るという体験
久松「そうすることで、語り手、テラーにはどんな体験が起こるんだろう?」
白坂「語り手には、今、気になってることなんかを語ってもらうわけなんだけど、その語りは、そんなの十分なのかどうか分からない、そこらなわけなのね。それを、アクターが再現する。
だから、役者の感覚が開くわけ」
久松「役者さんが、自分の人生の一片を再現してくれて、それを観て、ああ、こんなことがあったなあって思うわけですね」
演劇・心理療法と過去形、現在形
白坂「そう。でね、演劇って、過去形でしゃべらないでしょう?
今ここで再現するでしょう。そこが大事なわけ。今ここで起こっていることを観るのが、自分自身のストーリーに命を吹き込むわけです」
久松「なんで今ここで再体験するのが大事なの?」
白坂「演劇を過去形でやったらどうなる?」
久松「昔むかし桃太郎がいました、って? でもだんだん現在進行形になっていくか」
白坂「昔むかしは、物語が始まるための序章みたいなものなのね」
久松「出だし、終わりだけが過去形になるのかな。そして、桃太郎は、おじいさんおばあさんと幸せに暮らしましたとさ、って」
白坂「そう。最後には、過去に戻っていくということも大切。ちゃんと過去は、過去に戻って行くために、現在形で語るわけ。今ここで、演劇と共に、自分の人生を生きるってこと。自分の人生に命を注入するっていうことですよ。演劇って、過去のことではなくて、今ここでエネルギーを注いで、生き直して、また過去に戻すってこと」
久松「そこで、過去に戻すものは戻す。今、得るものは得るということか。時制の問題って、心理療法でも大きいと思うんだ。演劇手法をやると、そのあたりよく分かりますね」
白坂「演劇で、全部過去形で語ったら、ぜんぜん面白くないでしょ? 昔、あなたのことが好きでした、とか。
なんだよ、その時言ってよー、みたいな(笑)」
演劇的再体験とトラウマの再体験
久松「そのことと関係あるかどうか分かんないけど、トラウマのある人って、フラッシュバックするでしょ?
まさに今ここで、トラウマを再体験するわけだけど、それと、演劇的な再体験の違いってなんだろう?」
白坂「たぶん、一歩引いたところで体験できるっていう、距離感の違いだと思う」
久松「過去を今として体験しつつも、距離感を持って観れるのと、過去がわっと迫ってきて飲み込まれちゃうこととの違い?」
白坂「自分のものとしてだけ捉えると、自分の範囲だけでしか観れないというか。ちょっと、一歩二歩引いて、座布団一枚か二枚くらいの距離を置いて観ると、少し他人事として観れるわけ」
観客席から観る
久松「演劇手法のいいところって、観客視点も埋め込まれてるじゃない? 自分で演じながら、観客の視点も意識できるっていう、あれかなあ」
白坂「そう。舞台と観客の席が分かれてるのが大事やねん」
久松「うんうん。自分の中でも分かれていて、今ここで再体験しつつも、それを観ている観客の自分もいるよってことね」
白坂「そこに3つの気づき(頭の領域、外部領域、内部領域)の領域も意識されてくるわけ。今、自分がどこで意識しているかってことも分かる」
久松「思考で気づいているのか、五感で気づいているのか、それとも内部領域(身体感覚)で気づいているのかって違い?」
白坂「そうそう。海老蔵が言ってたことなんだけど、舞台の、というか観客席の端っこから自分を観る感覚で観ろって」
久松「それは世阿弥の言ってたことと同じですね、離見の見。違うかな」
白坂「そう。ファシリテーターも同じ」
久松「心理療法で、転移-逆転移を観るときも、似ているのかな。自分たちは今、こういう関係を演じているなっていう視点」
白坂「そうやね。心理療法だけじゃなくて、舞台でも、舞台の中だけにいるんじゃなくて、観客席の端っこからも観ているってこと」
久松「神田橋先生もそんなこと言ってるじゃない。離魂融合、やったっけ? 融合しながらも、離れて自分たちを見ている視点もあるっていう。そんなことが、技法としてできるのかは分からないけど、そういう瞬間があるっていうのは感じる」
白坂「そうなんだよね。プレイバックシアターもそうだし、ゲシュタルト療法でもそうだし。サイコドラマもそう。そこを伝えたいけど、こればかりはいくら言ってもわからへんやん。やっぱり体験しないと」
久松「うん。舞台に立つという経験も必要だし、観客として観る体験も大事だし、それを同時にやれるようにならないといけないし。
心理療法も同じかな。セッションの場は、ひとつの舞台だけど、それを俯瞰して見る視点も持たなきゃいけない。最初は、スーパーバイザーの視点を借りて、ってことになるのかもしれないけれど。
そういう意味では、演劇的手法を取らなくても、精神分析やパーソン・センタードのセラピーでも、演劇から得られるものって多いような気がする」
白坂「離脱というか、上から自分を見ているような感覚ってあるでしょう?
常に、ではないけれど、セッションのときにはそんな感覚、ここにも、身体の中にもいるし、ちょっと離れたところにもいるし、みたいな。どっちも大切」
川の流れを押さない
久松「ファシリテーターをして、最初はどうしようかなとか、こう関わったらって考えることがあるけれど、途中からそういうのが無くなっていって、そこからうまく展開するというように感じていて。
グループでのゲシュタルト療法でも、個人セラピーでも。竹内敏晴先生が、できるだけ早く自分をどうしたらいいかわからないところに持っていくんだ、演劇はそこから始まるんだ。
って言ってたというのをどこかで読んだんですけれど、心理療法も似たところがあるんじゃないかと考えているの。
こうすればこうなるだろう、って意図が前に出過ぎているときは、あんまりプロセスが動かないというか。
ファシリが困ってきたあたりからセッションが面白くなるっていうのは、お互いの意図を超えてプロセスが動き出したときかな」
白坂「なんとなく、見える部分もあるやん。でもそこを無理やり持っていかないようにするというか、パールズが、川の流れを押さないって言ったことに通じるかな。川はもうすでに流れているんだからって」
久松「パールズの晩年のお弟子さんで、パールズが彼女はナチュラル・ボーン・セラピストだって評したBarry Stevensっていう人が、”Do’nt Push the River”っていうタイトルの本を書いてたな」
白坂「パールズの『記憶のゴミ箱』にも書いてあった。川の流れを押さないって」
久松「で、なんの話してたんだっけこれ笑? そうや、プレイバックシアターや。ゲシュタルト療法をする人だけじゃなく、他のカウンセリングや心理療法をしてる人にも、子どもとプレイセラピーをしている人にも、心理療法以外の仕事をしている人にも、プレイバックシアターって面白くて気づくことの多い体験となると思います。なんて結論ぽいことを笑」
白坂「プレイバックシアターの劇団をつくりたいなって思ってる。そのときにはぜひ皆さんも、いっしょに遊びましょう」