2年間のトレーニングコース、そして自己の成長
GNK(ゲシュタルトネットワーク関西)7期生 江上正明

去年ゲシュタルト療法トレーニングコース(ベーシック)に参加した時は、とにかく癒されたいという思いが強く、「ゲシュタルト療法頑張らなければ!」みたいな意気込みが今よりも強かったのを覚えています。
今年のアドバンスコースはなんというか肩の力が全体的に抜けた感じで、癒されたい!という強い思いもなく、「ただそこにいることが自然」で、自分にとってゲシュタルト療法は自分のそばにあって当たり前なもの、になっていたように思います。
”自分がそのままでいられる空間”
そんな感じです。もちろん、役割を演じてしまう自分もいるのですが、そんな自分も含めてそのままでいられるという感覚。
アドバンスコースはベーシックコースと比べてファシリテーターをする経験が多いのですが、そのファシリテーターをするということが自分の様々な側面を受容するという、いい経験になりました。
ファシリテーターをするとクライアント役の方と一緒になって悩んで、迷宮に入り、頭がフリーズしてグルグルしたり、どう進めたらいいのか分からず、周りに助けを求めたりすることがありました。
はじめはそんな自分をできないダメなやつだとしか思えなったのですが、周りの方のフィードバックを聞くと、色々な気づきが起こりました。
クライアント役と一緒になって悩む姿が、その方の写し鏡のようになり、そのことで気づきが起こったと言われたり、
私が他の人に助けを求めたことは無力なのではなく、助けを呼ぶ力があるということに気づいたり、、。
他の人に同調してしまったり、助けを求めたり、頭がフリーズしたり、、ダメな部分を治そう治そうとしたけれど、そのままでいいんだ、と段々と思えるようになりました。
そして、ある時、他の方がファシリテーターをするのをみた際、自分のファシリテーターとしての引き出しの少なさに気づいたことがありました。
それまでの自分であれば、その方と自分を比べてしまい、もっと引き出しを増やさないといけない!と思っていたと思います。ところが、自分でも不思議なことに、引き出しの少ない自分でも、それが自分の側面の一つだしな、とふとそれを受け入れる自分がいたのです。
引き出しが多い=良い、引き出しが少ない=悪い。
そういったジャッジもなく、ただそういうものであるという感覚になったのです。
アドバンスコース最初の頃はアドバンス生で先輩なのだから、ベーシックの方より上手くやらないといけない!といった思いや、恥をかきたくないといった変な見栄とプライドがありましたが、トレーニングコースが進むにつれてそういった思いも弱くなり、そのままの自分を少しずつ受け入れることができるようになったと思います。もちろん、今でも変な見栄とプライドはありますが、そういった部分も含めて、前より受け入れられている感覚があります。
トレーニングコースの後半の月に身体を壊し、入院することもありました。入院中は自分の身体の調子が戻るのだろうかという不安に苛まれ、後ろ向きになって沈んでしまう日々でした。そういった中でも入院先からzoomでトレーニングコースに参加した際、無理に前向きになろうとしたり、明るく振る舞ったりすることもなく、そのままの自分でいることができました。その時ほど、『この場があってよかった』と思ったことはありませんでした。
明るく振る舞ったり、前向きになろうとしたりそういったことをせずともそのままでいるだけで、癒されていくような気がしました。
トレーニングコース最終月は合宿でしたが、無事退院したこともあり、参加することができました。前年はコロナウイルスの影響もあり、合宿ができなかったこともあったので、参加できたことがなりより嬉しかったです。琵琶湖の湖畔の美しい景色の中で、トレーニングコースを終えることができました。
これからのことは元々自分が無計画なこともあり、何も決めていませんが、これからもゲシュタルト療法には関わっていくと思います。
ゲシュタルト療法って何❓
と、一言で言うのは個人的には難しいですが、この感想を呼んで少しでも空気感が伝われば幸いです。